2007年5月22日火曜日

パレスチナ問題:ポグロムとイギリスの三枚舌外交



【ポグロム】 ロシア語で殺人、暴行、略奪の意味

1881年 アレクサンドル2世暗殺事件 ―ゲシア・ゲルフマン(革命集団ナロドナヤ・ボルヤ)

ウクライナ南部の都市 オデッサ(資料1・地図)―市民の3分の1がユダヤ人の多民族国家

ポグロムが生み出した3つの動き―ユダヤ人の大移住、革命への積極的参加、シオニズム運動の開始

1894年 ドレフェス事件


【イギリスの三枚舌外交】


191510月 フサイン=マクマホン協定

WWⅠ 連合国側の英 vs 同盟国側のオスマントルコ←アラブ人の武装蜂起 :独立を認める

フサイン・イブン・アリー(資料1・顔写真)と

駐エジプト英高等弁務官ヘンリー・マクマホン間の書簡での約束

4人の息子と共にアラブの反乱―1916年アラブ独立宣言、

1918年息子ファイサルがダマスカス(シリア)入城

(1916年サイクスピコ協定によりシリアは仏支配下→1920年シリアから追放)

ファイサルの兄アブダッラー 英の裏切りに怒りダマスカスを攻撃しようとする

→英はアブダッラーにヨルダンを、ファイサルにイラクを与える 


「フセイン=マクマホン協定」
決定的に重要とされているマクマホンの第二の手紙(1915年10月24日付)は、以下のように述べている。
(英語版wikipedia 11:06, 31 October 2006より)
The districts of Mersin and Alexandretta, and portions of Syria lying to the west of the districts of Damascus, Homs, Hama and Aleppo, cannot be said to be purely Arab, and must on that account be excepted from the proposed delimitation. Subject to that modification, and without prejudice to the treaties concluded between us and certain Arab Chiefs, we accept that delimitation. As for the regions lying within the proposed frontiers, in which Great Britain is free to act without detriment to interests of her ally France, I am authorized to give you the following pledges on behalf of the Government of Great Britain, and to reply as follows to your note: That subject to the modifications stated above, Great Britain is prepared to recognize and uphold the independence of the Arabs in all the regions lying within the frontiers proposed by the Sharif of Mecca.



1916年4月26日 サイクス=ピコ協定
英・仏・露の間で大戦後の中東地域の分割を協議―直接支配を狙う

英外務省中東担当官サイクスと仏前駐ベイルート領事ピコの間での、

パレスチナからメソポタミアに渡る旧オスマントルコ領土の戦後処理についての秘密協約

ベイルートを首都とするレバノン沿岸部:フランスの植民地

アラブ主権国家をダマスカスに設立しシリアとする:フランスの保護国

ハイファとアグラ(十字軍の根拠地):イギリスの直轄都市

パレスチナ:英・仏・露の共同保護国

ヨルダンからアラビア半島にアラブ主権国家を設立:イギリスの保護国

メソポタミア:イギリスの自由裁量

トルコ東部:ロシアの自由裁量   *ほぼそのまま現在の国境を決定したと言える




















1917年 バルフォア宣言


膨大な線費を必要としていた英は

ユダヤ人国家の建設を支持する書簡を出し、ロスチャイルド家から資金援助

英外相アーサー・バルフォア(資料1)と
ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド間の書簡のやり取り

ユダヤ人移民はパレスチナに流れ込み、
191756000人→1929156000人 アラブ人との対立激化


「バルフォア宣言」
Dear Lord Rothschild,
I have much pleasure in conveying to you, on behalf of His Majesty's Government, the following declaration of sympathy with Jewish Zionist aspirations which has been submitted to, and approved by, the Cabinet.
"His Majesty's Government view with favour the establishment in Palestine of a national home for the Jewish people, and will use their best endeavours to facilitate the achievement of this object, it being clearly understood that nothing shall be done which may prejudice the civil and religious rights of existing non-Jewish communities in Palestine, or the rights and political status enjoyed by Jews in any other country."
I should be grateful if you would bring this declaration to the knowledge of the Zionist Federation.
Yours sincerely,
Arthur James Balfour



親愛なるロスチャイルド卿
陛下の政府に代わり、ユダヤ人のシオニスト運動に次のような賛意を示す宣言をするとともに、あなたにそれを伝えることに深く欣快の意を表します。また本件は閣議に報告され承認を得ています。
陛下の政府はユダヤの人々のためパレスチナに国民的地区を樹立することを好意的にみなします。そしてその目的の達成のため最大限の努力を払うものとします。ただパレスチナに住む非ユダヤ系の人々の公民権と宗教的権利を侵害するものではなく、また他の国に居住するユダヤ人が享受している諸権利及び政治的地位を排斥するものではありません。
この宣言をシオニスト連盟に伝えていただければ感謝します。
誠意をもって、アーサー・ジェームス・バルフォア


2007年5月2日水曜日

シオニズム

シオニズム(Zionism):一般的に言うなら、「ユダヤ人がシオンの地[1]
すなわちエレツ・イスラエルに帰還しようとする運動、およびその考え方の総称」

紀元前586年の第一次バビロン捕囚から始まる、ユダヤ人への迫害と追放に対して、
ユダヤ人問題の解決を目指した。

ハスカラー運動(啓蒙運動[2])→同化
民族的な自己解放→パレスチナへの帰還

→1881年~82. ポグロム(ロシア、東欧でのユダヤ人に対する集団迫害暴動)
結果、東欧、ロシアでの同化の失敗

1882~1903. 第一回アリヤー[3]

シオニズムの形成
1894, ドレフェス事件[4]
テオドール・ヘルツェル(1860~1904):近代シオニズムの父
・ 政治的シオニズム:ユダヤ人再生を政治力や外交交渉によって解決。また国家的問題
1897.第一回シオニスト会議:バーゼル網領「シオニズムはユダヤ民族のために公法により保障される領土(a home)をパレスチナに建設することを目的とする」
→世界シオニスト機構(WZO)設立。 
バーゼル網領に賛成し、一定以上の金額を納付するシオニスト機構

アハッド・ハ・アム(1856~1927)
・ 文化的(精神的)シオニズム:イエハック・グルエンバウム、マルチン・ブーバー
・ パレスチナは人種的反ユダヤ主義からの避難所ではなく、精神的再生のセンターとならなければならない。

ウガンダ論争

1904~14. 第二アリヤー 最初のキブツ「ドガニア」発足
1914~18 WWⅠ
1915.フセイン・マクマホン協定
1916.5 サイクス・ピコ協定:英仏路による、オスマン帝国の分割案。
1917.11 バルフォア宣言:
    「英政府はパレスチナ内にユダヤ人の民族郷土を設立することに賛成し、
     この目的のために最善の努力を払う」
→1917.11 ソ連の「イズペスチャ」紙がサイクス・ピコ秘密協定を暴露。

1922.国際連盟理事会、英のパレスチナ委任統治を決定。
   27条からなる委任統治条項[5]

この頃からアラブ民族主義の高揚にともなって、アラブ人の暴動が頻発するようになる。

1929. 嘆きの壁[6]事件
1933.独、ヒトラー・ナチス政権成立:ナチスのユダヤ人迫害政策
1935.法令第六〇一九:ユダヤ人のパレスチナへの移住制限。
   石油資源確保へ向けた、アラブよりの政策

アメリカの介入

1947.9 第二回国連総会、パレスチナ分割決議採択 賛成三三 反対一三 棄権一〇
1948.5 イスラエル共和国独立宣言




労働シオニズム(社会主義シオニズム):労働運動や、キブツ・モシャブ運動など様々な運動や思想の集合離散の歴史。デイビット・ベングリオン、初代首相となった。

シオニスト修正派:ウラジミール・ジャポチンスキー(1880~1940) 
ハイム・ヴァイツマンと対立
・「イルグン」や「シュルテン」などの、ユダヤ人テロ組織を生み出した。また、1920年には、後のイスラエル国防軍の中核となる、「ハガナ」と呼ばれる武装部隊を創設。
・「大イスラエル主義」

(安藤 聖雅)

[1] エルサレム中心部のシオン山
[2] 18世紀、中世におけるカトリック教会の宗教的価値観に、理性と合理性の光を当てることによって、真実の解明をしようとした。
[3] アリヤーとは「登りくる者」の意。⇔ディアスポラ
[4] ユダヤ系フランス陸軍大尉アルフレッド・ドレフュスをめぐる冤罪事件。ドレフュスは、1894年にスパイとして有罪判決をうけたが、再審の是非をめぐってフランスの世論は二分され、最終的には無罪となった。

[5] バルフォア宣言と似ている。前文規定「これによってパレスチナとユダヤ民族との歴史的きずな、またこの地に彼らの民族郷土を再建することの根拠に対して承認を与えた。」 これはイスラエル国家の正当性の根拠とされた。
[6] ソロモンが造営したエルサレムの第一神殿が破壊され、その後、バビロン捕囚から帰還したユダヤ人が再建した第二神殿のうち、ローマによって破壊され、辛うじて残った高さ18mほどの西側の壁をいう。ユダヤ人にとって大切な昔ながらの神聖なシンボル。

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メモ
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○知識を詰め込むだけじゃなくて、
 本当に全部理解するまで聞く!調べる!考える!
○ユダヤ人はディアスポラ後何千年もの間、
 なぜ民族としてのアイデンティティーを保っていられるのか?
○キブツ、アリヤー:わざわざ帰還した人はどんな状況の人だったのか?
○ウガンダ論争については今回は割愛。

○レジュメには参考文献を明記しよう!

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次回(5月8日)
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後藤=ポグロムとイギリスの三枚舌外交
菊池=シオニズムとナチス(ヨーロッパでのシオニズム)

予習してきてねー♪